芥川龍之介の蜜柑のあらすじと解釈を簡単に紹介!

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芥川龍之介の作品の中でも、爽やかな気分になれるのが「蜜柑」です。「蜘蛛の糸」や「羅生門」に知名度では負けていますが、他の作品にはない魅力が込められています。

今回は、「蜜柑」のあらすじや解釈、また背景知識などを詳しくお伝えします。

蜜柑の舞台や登場人物

この小説の舞台は、神奈川県の横須賀駅です。当時、芥川龍之介は横須賀に勤務しており、頻繁に横須賀線を利用していました。

蜜柑は小説ではなく、エッセイと言ったほうがいい」という意見もあるように、「蜜柑」は芥川自身の体験をもとに書かれた作品です。実際に、もともとのタイトルは「私の出遇った事」でした。

当時はまだ電車ではなく、汽車の時代。現代人にはもう馴染みはないかもしれませんね。汽車は石炭を燃料として使い、蒸気力で動くという仕組みで、モクモクと黒煙を上げながら進んでいきます。「蜜柑」の中にもこういった描写がありますね。

物語の登場人物は、「」と「」の2人です。

「私」は先ほども触れたように、芥川龍之介自身のことですね。当時の芥川の年齢は24歳ほどだと言われています。駅で汽車を待つ彼の心には、疲労と倦怠が渦巻いています。

「娘」は「私」が汽車の中で出会った少女です。年は13・14歳ほどで、ほほを赤く火照らせた、いかにも田舎じみた娘と描写されています。

蜜柑のあらすじ

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ある曇った冬の日のことである。憂鬱な気分で汽車に乗り込んだ私のそばに、13、14ほどの娘がやってきた。大きな風呂敷包みを抱えた、ひどく田舎じみた少女だった。

彼女の垢ぬけなさ、くたびれた服装、そして3等切符で2等室に乗ってくる無知さ加減に腹が立つ。彼女の存在を無視しようと、私は新聞紙を膝の上に広げた。

汽車はいつの間にかトンネルに入っていた。やがて娘は閉めてある窓を開けようと、必死で頑張り始めたが、私は冷たい目でそれを見ていた。再びトンネルに入ると、娘の試みは成功してしまい、開いた窓からは黒煙がもうもうとなだれ込んできた。

 どす黒い空気を吸い込み激しくせき込んでしまい、娘を叱りつけようかと思ったときである。トンネルを抜けた先、踏切の柵の向こう側に、頬の赤い幼い少年たちが並んでいるのを私は目にした。

その時である。娘は懐から蜜柑を取り出したかと思うと、身を乗り出し、眼下の少年たちに向かって5つ6つと窓から投げたのだ。わざわざ見送りに来た弟たちの労に、蜜柑で報いたのだろう。

その光景を見た私の心には、なんとも爽やかな気持ちが湧いてきたのである。

蜜柑の解釈と感想

娘への軽蔑と感動

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蜜柑におけるポイントは「私」の感情がラストで大きく動くことにあると思います。

冒頭の部分では、

私の頭の中にはいいようのない疲労と倦怠とが、まるで雪曇りの空のようなどんよりした影を落していた。

私は外套のポケットへじっと両手をつっこんだまま、そこにはいっている夕刊を出して見ようという元気さえ起らなかった。

と描写されているように、私の気分は相当に沈んでいることが伝わってきます。また、「娘」と出会っても彼女のことがうとましく、気分は暗いままです。

私はこの小娘の下品な顔だちを好まなかつた。それから彼女の服装が不潔なのもやはり不快だった。最後にその二等と三等との区別さへもわきまえない愚鈍な心が腹立たしかつた。

この隧道の中の汽車と、この田舎者の小娘と、そうして又この平凡な記事に埋っている夕刊と、――これが象徴でなくて何であろう。

不可解な、下等な、退屈な人生の象徴でなくて何であろう。私は一切がくだらなくなって、読みかけた夕刊を放り出すと、又窓枠に頭をもたせながら、死んだように眼をつぶって、うつらうつらし始めた。

しかし、娘の行動によって娘への印象や鬱屈とした気持ちは大きく様変わりしていきます。

窓から半身を乗り出していた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢よく左右に振つたと思ふと、たちまち心を躍らすばかり暖な日の色に染まっている蜜柑がおよそ5つ6つ、汽車を見送った子供たちの上へばらばらと空から降って来た。私は思はず息を呑んだ。そうして刹那に一切を了解した。

私の心の上には、切ない程はっきりと、この光景が焼きつけられた。そうしてそこから、ある得体の知れない朗らかな心もちが湧き上って来るのを意識した。

私はこの時始めて、いいようのない疲労と倦怠とを、そうして又不可解な、下等な、退屈な人生をわずかに忘れる事が出来たのである。

 どうして「私」は感動したのか

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娘の行動は、「弟たちに蜜柑を与える」という、いわばありふれた行為だったのですが、「私」は相当感動していますよね。それはどうしてでしょうか。自分は以下の2つの点から大きな感動があったのではないかと思います。

  1. 自分より弟を思いやる少女の行動
  2. 色彩鮮やかな光景の美しさ

まず、1についてみてみましょう。この娘はどうやら奉公先に出ていくようだと「私」は考えています。奉公先に出るというのは家族と離れ、泊まり込みでお店に働きにいくということです。少女は13・14歳程度ということは、中学1年生ほどで家族と離れ離れになっているんですね。

自分がそんな状況なら心細く、不安でいっぱいで、他のことを考えている余裕はないかもしれません。しかし、少女は見送りに来た弟たちの労をねぎらおうと他人を思いやる気持ちを持っていました。その少女の心持の美しさが、「私」の心を打ったのではないかと思います。

次に2の理由についてです。この小説の中で最も印象的なのは、少女が蜜柑を少年たちにばらまくシーンです。もちろん、小説なので映像として見ることはできないのですが、芥川の見事な表現によってその情景が目の前で起こっているように感じます。

暮色を帯びた町はずれの踏切と、小鳥のように声を挙げた三人の子供たちと、そうしてその上に乱落する鮮やかな蜜柑の色と――すべては汽車の窓の外に、瞬く暇もなく通り過ぎた。

さすが芥川!」と言いたくなる部分ですね。夕暮れ空に、鮮やかな蜜柑の実が降り注ぐ様子は非常に美しいものだと思います。「私」もこの言いようのない美しい瞬間に心奪われたのではないでしょうか。

書評・総合評価

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  • おもしろさ★★★
  • よみやすさ★★★★★

5段階で「蜜柑」の評価をしてみました。芥川の作品の多くがそうであるように、「蜜柑」も短編で読みやすい作品です。「私」の心情も「娘」の考えも、共感できるものであり、感情移入がしやすいです。

そして、最後の場面、蜜柑がばらまかれるシーンは、ありありとその光景が目に浮かぶようです。芥川の表現のすばらしさがよくわかり、いい作品だと思います。

ただ、「羅生門」や「蜘蛛の糸」という芥川の他作品と比べると、内容がどうしても薄いように感じてしまいました。哲学的な「作品の深さ」を求めている方にとっては、その点で少々物足りないかもしれませんね。

おわりに

今回は芥川龍之介の「蜜柑」のあらすじと解説をご紹介しました。読了後のすがすがしさがこの作品の一番の特徴だと思います。

短く、読みやすい作品なのでぜひ1度は読んでみてはいかがでしょうか。また、「蜜柑」が収録されているこちらの作品もおすすめです。

他にも「蜘蛛の糸」や「芋粥」など有名な作品が一緒に読めますよ!

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