宮沢賢治の生涯と年表をわかりやすく解説!

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宮沢賢治と言えば岩手を舞台に、数多くの童話を世の中に送り出した作家です。

風の又三郎」や「注文の多い料理店」のタイトルは、大人から子供まで幅広く知られています。

でも、彼の作品は生前にはほとんど売れなかったのは知っていたでしょうか?

 

作品自体は知っていても、あまり宮沢賢治本人については知らないことも多いですよね。

今回は宮沢賢治はどんな人だったのか、その生涯を詳しく紹介したいと思います。

また、あわせて年表から賢治が生きていたのはどんな時代だったかも見ていきましょう。

 

宮沢賢治の生涯

少年期~青年期

宮沢賢治は1896年に岩手県の花巻に生まれました。

父親はいわゆる「質屋」を営んでおり、裕福な家庭であったといいます。

 

小学校に上がった賢治は学業面では非常に優秀で、すべての教科で、今で言うA評価をとっていました。

幼いころから読書や昆虫の標本づくり、鉱物採集が好きで、自然の中で遊ぶ子供だったといいます。

 

中学に入ってからもますます鉱物採集に熱中し、近くの山を歩き回っては、岩石を集めていました。

盛岡高等農林学校にも首席で合格した賢治は、農業を学ぶかたわら、文学活動も始め『アザリア』という文芸同人誌も出版しています。

 

充実した生活を送っていた賢治でしたが、このころ「結核」と診断され、病に苦しむ生活を送ることになります。

結核発覚後もしばらくは研究生として農学校に残っていましたが、故郷の花巻に帰りました。

 

農学校を経て「農家」に

25歳の時、地元の農学校で教師として働き始めます。

教員の友達もでき、友人の影響でレコードにはまり込んで、給料のほとんどをつぎ込んでいたといいます。

教鞭をとるのと同時に、作家としての活動も継続しており、雑誌に投稿もしていました。

この時掲載されたのが「雪渡り」という童話ですが、原稿料をもらったのはこれが最初で最後でした。

 

楽しい生活を満喫していた賢治ですが、1922年に妹のトシが結核で亡くなってしまいます。

愛する妹を失い生み出されたのが「永訣の朝」や「無声慟哭」といった作品です。

 

賢治は花巻農学校を辞職し、一人で農業を行うようになります。

しかし、周囲の農民にとってはそういった賢治の活動は「金持ちの道楽」としてしか映っていなかったようです。

 

賢治はセロやエスペラント語を習いに東京に行っており、その費用は父親に頼っているのを見れば、そう思うのも当然かもしれませんね。

ですが、賢治は周囲の人たちに肥料の計算などを教えるなど、積極的にかかわっていたといいます。

 

その後、伊藤七雄という人から招待を受け、伊豆大島で農学校の設立に携わりますが、結核を発症。

一時は回復しましたが、肺炎にかかってしてしまい、37歳の若さで亡くなっています。

 

宮沢賢治はどんな人だった?

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宮沢賢治の生涯をざっくりと紹介しましたが、賢治はどんな人物だったのでしょうか。

ここでは、容姿・性格・恋愛・人生観という4つの視点からご紹介していきたいと思います。

容姿

宮沢賢治と言えば、丸刈りで足と手を組み椅子に座っている写真が有名ですね。

写真からは、素朴な印象を受けます。

イケメンとは言えないかもしれませんが、穏やかな顔立ちをしていますね。

都会というよりは、やはり田舎のゆったりとした生活が似合いそうです。

 

性格

賢治の性格は優しくて頑固と言えます。

彼がやさしいのは言うまでもないですね。

幼少期には質屋という父親の商売に心を痛めたり、よくいじめられている生徒をかばったりしていたとも言われています。

 

しかし、頑固な側面も強かったことがうかがえます。

例えば、賢治は「生き物の命をとるのは嫌だ」と菜食主義になっています。

あまりにも質素な生活をしており、病気になってしまい、家族も心配していたのですが、差し入れも受け取らなかったというエピソードも残っています。

 

恋愛

賢治は生涯結婚しませんでした。

といっても女性とのエピソードはいくつか残っています。

 

まず、教員時代には大畠ヤスという女性と恋に落ちています。

女学校でレコードコンサートを開き、そこでの出会いがきっかけになったそうです。

いろいろな説が唱えられていますが、彼女とは結局別れてしまいました。

 

次に女性と仲良くなるのは賢治が教職を辞して農業を本格的に始めた頃でした。

賢治は「羅須地人協会」という集まりをつくり、農業や音楽を楽しんでいました。

そこにやってきた高瀬露という女性が賢治のことを気に入り、身の回りの世話をしようと頻繁に賢治の家に押しかけてきます。

 

しかし、賢治はあまり乗り気ではなかったようで、居留守を使ったり、わざとみすぼらしい格好をして対応したりと、彼女のことを冷たくあしらっています。

結果、彼女からは悪口を言いふらされるようになってしまったのですが、これは自業自得ですよね。

 

最後に伊豆に渡った時には、賢治を招待した伊藤七雄の妹、チエを気に入っています。

農村で働く彼女に親近感を覚えたのでしょうか、「結婚するならあの女性だ」と親友に語っていましたが、自身が結核になってしまったので結婚することはありませんでした。

 

高瀬露のエピソードはちょっと…と思いますが、賢治は女性関係にだらしないわけではありませんでした。

でも、自分の中の理想が少し高すぎたのではないかと感じますね。

 

人生観

賢治はどんな思想をもって生きていたのでしょうか。

彼の人生観を一言で表すなら、次の言葉に集約されていると思います。

 

  • 世界ぜんたいが幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない。(農民芸術概論綱要)

 

賢治は自身のことだけでなく、他の人々のことを常に思いやっていた人物でした。

 

世界全体が幸福になるためには、他者を犠牲にしてはならない。

他人を犠牲にするくらいなら、自分を犠牲にする。

そんな思いから、賢治は肉を食べない菜食生活を行っていました。

また、「雨ニモマケズ」にもこういった賢治の人生観が色濃く映し出されていると思います。

 

農民と同じ立場に立ち、互いに助け合い、農作業の合間には文学に遊んで、いつも静かに笑っている。

それが賢治の考える理想的な人生だったのではないでしょうか。

 

年表で見る一生

宮沢賢治の生涯と当時の出来事を年表にまとめてみました。

 

年代

出来事

世の中の動き

1886年

誕生

陸羽地震発生

1915年

盛岡高等農林学校に入学

第一次世界大戦勃発(1914年)

1917年

同人誌「アザリア」を刊行

 

1922年

雪渡り」発表、原稿料5円を受け取る

ヴェルサイユ条約(1919年)

 

妹トシが結核で亡くなる

 
 

「永訣の朝」「無声慟哭」を書く

関東大震災(1923年)

1924年

春と修羅」を自費出版

 
 

注文の多い料理店」を自費出版

 

1926年

教師を辞めて本格的に農業を開始

 

1930年

高熱で倒れる
病床で「雨ニモマケズ」を書く

満州事変勃発(1931年)

1932年

グスコーブドリの伝記」を発表
肺炎を再発し亡くなる

 

 

宮沢賢治は幼いころから体が弱く、結核や肺炎に苦しみ、37歳で亡くなっています。

病床に伏しているときもちゃんとした薬を飲まず、医者にもかからなかったそうです。

 

きちんと栄養をとり、医者に診てもらえばもっと長生きでき、いい作品が書かれていたのではないか…と考えてしまいますよね。

 

世の中は戦争や震災が相次ぎ、混乱を極めていましたが、賢治は世の中の動きからは少し離れた世界に生きていました。

農業を行い、合間に童話や詩を書くという牧歌的な生活を営んでいたからこそ、「イーハトーブ」という独特な世界観が築かれたのだと思います。

 

賢治の作品は、生前にはあまり評価されませんでしたが、彼の死後に広まり、日本を代表する作家のひとりとなりました。

賢治の作品が広まったのは、詩人の草野心平らの精力的な活動があったからだと言われます。

今の私たちが「銀河鉄道の夜」や「雨ニモマケズ」を読むことができるのも、彼らのおかげですね。

 

おわりに

今回は宮沢賢治とはどんな人なのか、彼の生涯を紹介し年表で確認しました。

賢治の世界観は独特で、読んでいると作品の中に引き込まれてしまいます。

 

「子供のころには読んだことがあるんだけど、大人になってから読んでないな…」

という方はもう一度手に取ってみてください。

彼の作品の魅力を再発見できると思いますよ!

 

宮沢賢治の作品はこちらでも紹介しています!

bunngou-matome.hatenablog.com

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