太宰治ってどんな人?年表から見る生涯と生い立ち

年表から見る太宰治の一生

 太宰治といえば、数々の名作を残し、自ら命を絶ってしまった文豪だとよく知られていると思います。しかし、彼がどのような生い立ちで、どんな生涯を送ったのかということはあまり知られていません。

今回は文豪、太宰治がどんな一生を送ったのかを簡単にまとめてみました。また、どんな時代に彼は生きたのかを知るために年表をつけています。わかりやすくまとめたので、ぜひ参考にしてくださいね。

太宰治の生い立ちと生涯

文学に親しんだ少年期

本を読む人

太宰治1906年青森県の津島家に生まれました。彼の本名は「津島修治」といい、お父さんは議員。津島家は地元でも屈指の名家でした。また、学生時代の太宰は学業も非常に優秀で、秀才ぶりを発揮していたといいます。

芥川龍之介菊池寛井伏鱒二といった名作家たちに触発され、高校生くらいのころから自分でも文学作品を書き始めます。

しかし、太宰が18歳の時に衝撃的な事件がありました。尊敬する文豪、芥川龍之介の自殺です。あまりのショックに太宰は学校での勉強をやめて、政治活動に走ります。

活動の中、「裕福な階級」という自己の生い立ちに悩み、自殺未遂を図ったりもしています。なんとか一命をとりとめた太宰は、フランス文学を学ぼうと今の東大文学部に入学します。

人間失格」のような人生

ウイスキー

無事大学に入学できたものの、授業は難しく太宰でもついていくことができなくなったそうです。目標を変えて小説家の道を志すことにし、井伏鱒二に弟子入りをしました。

まっとうな道に進んだように見えた太宰ですが、私生活は乱れていました。バーで知り合った女性と自殺未遂を試み、自分だけ生き残ってしまったり、鎮痛剤の中毒になってしまったり、就職活動に失敗してしまったり…

小説の道でも第一回芥川賞の受賞を逃してしまい、精神的にもくるものがあったのでしょうか。ますます鎮痛剤の中毒症状が進行し、周囲の人から強制的に病院に入れられてしまうのです。

作家としての成功と最後

悲しい男性

退院した後も、心中未遂をしてしまう太宰でしたが、井伏鱒二らの助けで徐々に回復していきました。お見合いした石原美知子と結婚した後は、作家活動も順調になり、「女生徒」や「富嶽百景」そして「走れメロス」といった代表作を生み出しました。

また、戦争が終わり出版された「斜陽」は大ベストセラーとなり、「斜陽族」という言葉が今でいう流行語大賞になるなど、太宰の人気はうなぎのぼりだったのです。

しかし、体調は相変わらず回復せず、最後は玉川上水で愛人の山崎富栄と入水自殺。38歳という若さでこの世を去っていきました。死の直前に書かれた「人間失格」が、太宰の遺書だとも言われていますね。

太宰治はどんな人だった?

疑問に思っている人

このように波乱万丈な生涯を送った太宰治でしたが、どんな人物だったのでしょうか。今回は様々な角度から太宰の素顔をご紹介したいと思います。

容姿

若い時の写真を見ると一目瞭然なのですが、太宰はイケメンです。割とほりが深く、俳優のように整った顔立ちをしています。

 また、太宰は身長も高いと評判です。推定身長は175㎝程と言われていますから、当時にしてはかなりの高身長。詳しくは後で触れますが、女性たちにとてもモテました。 

性格

明るくお調子者な部分と、暗く悲観的な部分が混在していたのが太宰だと思います。そして、少しナイーブなところもありました。ちょうど「人間失格」の葉蔵のようですね。

太宰というと、厭世的な部分がクローズアップされがちですが、明るい性格を示すエピソードも多く残っています。特にお酒が入ると、陽気にしゃべり歌を歌ったと、友人である檀一雄が述懐していますね。(参照:『小説 太宰治』)

このように、明るく、悲観的で、そして繊細という複雑な性格をしていたのが太宰でした。

恋愛

太宰は、非常に多くの女性からモテました。先ほども触れたとおり、容姿端麗で高身長、明るい反面どこか影のある性格が女性を惹きつけたのかもしれません。

自殺未遂を図るときはたいてい女性と一緒ですし、晩年には愛人の太田清子との間に子供をもうけ、その一方で山崎富栄とも浮気していたなど、女性とのうわさに事欠かないのが太宰という文豪です。

相手の女性の写真も残っているのですが、みんな美人です。心中は御免ですが、うらやましい限りですね。

人生観

人生については厭世的・否定的な見方をしており、「自分には幸福になる資格がない」と考えていた節があります。こういった考えは、例えば

  • 弱虫は、幸福をさえおそれるものです。綿で怪我するんです。幸福に傷つけられる事もあるんです。(人間失格

といった名言にも見られますね。

自ら人生を放棄してしまったのですから、ポーズではなくある程度は本当に思っていたことなのでしょう。尊敬していた芥川も同様に人生を苦しみととらえ、自ら命を絶ったので、その影響を強く受けているのかもしれません。

年表で見る一生

太宰はどのような時代に生きたのでしょうか。当時の世の中の動きと共に見てみたいと思います。

年代 出来事 世の中の動き
1909年 誕生  
1923年 青森中学校入学 関東大震災
1925年 最初の作品、「最後の太閤」を発表 普通選挙法・治安維持法の公布
1928年 このころから左翼運動に参加  
1930年 東京帝国大学文学部に入学   
  田部シメ子と自殺未遂を図る 満州事変(1931年)
1935年 第一回芥川賞を逃す  
  鎮痛剤の中毒がひどくなり、強制入院させられる
  小山初代と自殺未遂  
1939年 石原美知子と結婚 第二次世界大戦勃発
  富嶽百景」・「女生徒」を発表  
1940年 走れメロス」発表  
1947年 「斜陽」が連載開始 第二次世界大戦終結(1945年)
1948年 人間失格」が連載開始  
  玉川上水で山崎富栄と入水  

このように見てみると、関東大震災満州事変、そして第二次世界大戦一般の人々も戦火に巻き込まれていく時代でした。実際、太宰も妻の実家の甲府疎開したり、そこが焼けてしまってからは実家の青森に逃げたりと、戦争の被害を受けています。

終戦の際には「ばかばかしい」という言葉を連呼していたといいますが、その心情もうかがい知れますよね。そんな中でも「女生徒」のような代表作を生み出していた太宰は、やはり素晴らしい作家だと思います。

おわりに

今回は太宰治の生い立ちや生涯についてご紹介しました。数々の女性と関係を持ったり、薬に走って入院したり、何度も自殺未遂を繰り返したり…と、波乱の多い人生を送った太宰治

太宰の作品には彼自身の思想が色濃く反映されているので、背景を知って作品を読めば、より味わえると思います。ぜひもう一度、太宰作品を手に取ってみてくださいね。