芥川龍之介「蜘蛛の糸」のあらすじと解説!この話の教訓は何?

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芥川の作品の中でも有名なのが「蜘蛛の糸」だと思います。小学校の教科書にも載っている作品であり、多くの方が読んだことがありますよね。

しかし、その内容は非常に深く、大人の私たちにも考えさせるものがあります

今回は蜘蛛の糸のあらすじを紹介し、何がそこまで深いと言えるのか、この話の教訓は何なのかを解説していきます。

また、読了後に疑問となりやすい箇所を3つに絞って説明しています。昔読んだことがあるという方も、もう一度、物語の中に踏み込んでみましょう。

蜘蛛の糸の登場人物や背景

この作品に登場する人物は2人です。

1人は、カンダッタカンダタ)という大泥棒。

生前は殺人に放火、強盗とひどいことばかりやっていた大悪人です。物語の中では生前の罪のために血の池地獄に落ちて苦しんでいます。

2人目はお釈迦様です。

今から約2600年前にインドで活躍した方で、どんな人も幸せになれる仏教を説きました。地獄に落ちて苦しむカンダッタを何とか助けようと、蜘蛛の糸を垂らします。

芥川は仏教的な説話をモチーフにしてこの話を書き上げました。そして「蜘蛛の糸」は児童向けの「赤い鳥」という雑誌に載り、いわゆる児童文学作品の一つとして位置づけられています。

蜘蛛の糸のあらすじ

ある日のこと、極楽の蓮池の周りを散歩していたお釈迦様は、ふと池の中をご覧になった。澄み切った水を通して映し出されたのは、地獄で苦しむ亡者どもの姿。その中にカンダッタという男がいた。生前は大泥棒として悪事の限りを尽くした男だった。

お釈迦様はこのカンダッタも、たった一つだけ良いことをしたと思いだされる。極悪人のこの男も、ある時蜘蛛の命を奪わずに助けたことがあったのだ。何とかこの悪人を救い出そうと、お釈迦様は極楽の蜘蛛の糸を蓮池から下ろされた。

血の池地獄で溺れ苦しむカンダッタは、目の前に銀色の細い糸が垂れてきたのに気づく。「これさえあれば助かる。地獄から抜け出せるかもしれん。」そう考え、彼は極楽目指して糸を上っていった。

遥か上まで登り、カンダッタが一息をついていると、地獄の亡者たちがこぞって細い糸を上ってくるではないか。焦りに焦り、糸を振ってなんとか亡者を振り落とそうと試みる。

なおも上ってくる罪人たちに、「これは俺のものだ」と叫んだ、そのとき。プツリと音を立てて、糸は切れてしまう。カンダッタはくるくると回りながら、真っ逆さまに血の池地獄に落ちていった。

この一部始終を見ていたお釈迦様は悲しそうな顔をなさると、再び極楽をぶらぶらと歩いていくのであった。

蜘蛛の糸の疑問を解説

蜘蛛の糸」は非常に短い物語ですが、人間の本質を巧みに描いた作品だと思います。話の展開は児童向けだけあってわかりやすいので、ここでは読了後に疑問になりやすい部分を3点ピックアップして解説していきたいと思います。

①どうして蜘蛛の糸を使ったの?

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私が初めて読んだ時には「なんでそんな切れやすい糸を使ったの…?」という感想を抱きました。アラミド繊維など丈夫なものを使ってくれれば落ちずに済んだのになぁと思ったのですね。

これに対する答えとしては、「」という点から説明ができます。まず、大泥棒のカンダッタが行った善行とは何であったか確認しましょう。

ある時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛が一匹、道端を這って行くのが見えました。そこでカンダッタは早速足を挙げて、踏み殺そうと致しましたが、

「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗にとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。

このように「蜘蛛の命を助ける」という良いことをカンダッタはしています。こんなこと当たり前だと思うかもしれませんが、実は私たちのやる「良いこと」も本質的には彼と同じレベルです。

例えば、飛べない鳥を保護する一方で、平気で鶏肉を食べているのが私たちです。よく考えると矛盾しているのですが、生きていくためにどうしても罪を作ってしまうのが私たちの本質だと思います。

さて、このように蜘蛛を救ったカンダッタは、蜘蛛との間に「縁」ができました。仏教では「縁」を非常に重視しており、「縁がなければ助けられない」とまで言われます。

なので、お釈迦様がカンダッタを救うにも何かの縁が必要でした。それが今回の場合は蜘蛛であり、その糸が使われたということです。

②なぜ糸は切れてしまったのか

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次に多い疑問としては「どうして糸がいきなり切れたのか」ということです。あらすじを振り返ってみるとカンダッタはずいぶん高くまで上ることができました。

つまり、この糸は強度的には問題がなかったと言えますね。それなのに、どうして糸は切れてしまったのでしょうか。蜘蛛の糸が切れる部分を本文で確認してみましょう。

罪人たちは何百となく何千となく、まっ暗な血の池の底から、うようよと這い上って、細く光っている蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。

今の中にどうかしなければ、糸はまん中から二つに断れて、落ちてしまうのに違いありません。そこでカンダッタは大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。お前たちは一体誰に聞いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚わめきました。

その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急にカンダッタのぶら下っている所から、ぷつりと音を立てて切れました。

亡者たちが上ってくるのを見て焦ったカンダッタが、「これは俺のものだ!」と叫んだところで、糸は切れてしまいます。よって、カンダッタの叫び=糸が切れた原因ということです。

彼の叫びの内容は「自分さえ助かれば、他のものはどうなってもいい。」という感情に他なりません。これは、もう少し後の本文でも言及されていますね。

自分ばかり地獄からぬけ出そうとするカンダッタの無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが…(中略)

仏教ではこのような「自分さえよければ」という姿勢を「我利我利」と呼び、非常に嫌われます。この物語では「我利我利では本当の幸せにはなれない」ということを、蜘蛛の糸が切れる=地獄へ落ちるというように表しているのです。

③最後のお釈迦様が冷たい?

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お釈迦様がなんか冷たい…」という感想も多く見受けられます。確かに、一見すると、物語の最後では結構あっさりとした反応をしているように思われます。

お釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがてカンダッタが血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。

また、カンダッタのことを「浅間しく思召された」という表現や、「極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。」という表現も続くので、一層冷たい反応のように思われますね。これはどういうことでしょうか?

一つには「芥川が元の小説の内容を理解しきれていなかったから」だと言われています。「蜘蛛の糸」のモデルになったのは海外の作家が書いた物語であり、芥川がそのテーマを十分に反映させなかったのでは?という説が唱えられていますね。

この説が正しいのかはわかりませんが、私としては「お釈迦様は冷たいのではなく、もうどうしようもなかったから立ち去った」というのが正しいように思います。

先ほども解説しましたが、仏教では縁がないと相手を助けることはできないと言われます。なので、蜘蛛という縁を見つけてカンダッタを助けようとしたのでしたね。ですが、カンダッタの無慈悲な行動によってその縁=蜘蛛の糸は文字通り切れてしまいました。

彼を助ける唯一の縁手掛かりが蜘蛛の糸だったのですが、それすらもなくなってしまったということです。だから、お釈迦様は「悲しそうなお顔をなさりながら」仕方なくその場を立ち去ったのでしょう。

 カンダッタが他に良いことをしていれば、お釈迦様も別の方法で助けようとしたでしょう。例えば鳥を助けていれば、鳥を地獄まで派遣したかもしれません。ですが、カンダッタが生前に行った善行は「蜘蛛を助ける」というものしかありませんでした。よって助けるための縁が他になく、お釈迦さまでもどうしようもなかったのです。

書評・総合評価 

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  • おもしろさ★★★★★
  • よみやすさ★★★★★

蜘蛛の糸」の評価をしてみると、上記のようになりました。おもしろさ・よみやすさ共に最高評価を与えて良い作品だと思います。

短い作品でとても読みやすく、テーマも深い、素晴らしい作品ですね。子供向けに書かれた本は、内容の深さよりも「いかに面白おかしいか」に焦点が当たりがちですが、「蜘蛛の糸」はメッセージ性が強い小説だと感じます。

ただ、今回も解説したように「どうして蜘蛛の糸なのか」「お釈迦様は冷たくない?」といった部分をきちんと理解するためには仏教の考え方も知っている必要があります。より深く味わうためには必須の知識ですが、ちょっとハードルが高いですよね。

おそらく、そこまで意識して読んでいる方は少ないと思うので、もう一度読み返してもらうと物語の捉え方が変わったことに気づけると思います。

おわりに:蜘蛛の糸から得られる教訓とは?

この物語を読んで感じてほしいのは、カンダッタの姿=私たちの姿ということです。もちろん、彼のように強盗や放火などは行ってはいけない行為ですが、私たちにも決して否定できない部分があります。

それは、私たちが「自分のことばかり考えている」という点です。

自分に余裕があれば手を差し伸べますが、少しでも余裕がないと他人に厳しく当たってしまいます。そして、カンダッタと同じ状況に立たされた時、同じことをしてしまうのだと思います。

自分勝手な姿を自覚し反省するからこそ、苦しくても他人に優しくできます。また、他人に優しくしがたい自分たちだと知れば、他の人の善意はありがたく、より感謝できるようになるのです。

このような教訓を得られるのが、「蜘蛛の糸」という物語だと思います。

芥川の作品はこちらでも解説しています。

bunngou-matome.hatenablog.com